きょうだい児の日記

自閉症スペクトラムを持つ兄との生活や、その兄と育った私の日々を綴っています。

自傷行為

自傷行為はしたことがない。いや、自傷行為とそれ以外の線引きがはっきりしていないから、言い切れないけれど。爪を噛むことすら、自傷行為と言われるなら、私は爪を噛むから、自傷行為をしたことがあるし、今もなおこっそりとだが、自傷行為をやめられていない。中二のとき、学校でつらいことがあると、トイレで自分の首を絞めていた。呼吸ができなくて、苦しくて、それと、心の痛みが同じ感じだから、なんだか心の痛みが体の痛みになって、手にとるように「私は今痛いんだ」と頭が理解してくれてわかるから、なんだかほっとしたんだと思う。それからかどうかわからないけど、今、つらい思いをすると、首を絞めたくなる。息が苦しくなって、頭が朦朧としたくなる。殴られたくなる。多分、これは後遺症だ。今、首を絞められたい。

悩むということ

 苦手なものは誰にでもある。勉強だったり、スポーツだったり。私が一番苦手なものは、人間関係だ。

 ふと、心に影が差すように、暗い気持ちになることがある。ごちゃまぜで、悲しみと、寂しさと、よくわからない感情が突然襲ってくる。例えば、インスタグラムを見たとき。インスタグラムは、ひどい。人が幸せそうにしているのを見るツールで、自分が不幸なときに見ると、自分の辛い人生と他の人の幸せそうな人生を比較してしまうのだ。

 人と比べなくて良くなるのはいつだろうか。楽しいフリをしなくても、満足できるようになるのはいつなのか。目立たなくても、自分なりの幸せで満足できるような。きっと、それはたった一人の大切な人ができたとき、そしてその大切な人を「大切」と認識して、見返りを求めない優しさが当たり前になったときだろう。

 陽キャ、隠キャ、なんでわかるのは差別だ。人々がいつか、それが差別だと気づき、どの人間にも価値があると考えられるようになる社会を、いつか作り上げられるといい。

友達との温度差

自分が相手を想っているより

相手は自分を想っていなかった

 

おそらく、女だったらこんな想いを何度もしたことがあるはず。恋愛に限らず、友情でも。

 

私にはすごく懐いてくれている友達がいた。だから、私も心を許し、学校がない3ヶ月の間、ずっと彼女のことを考え、彼女の受験のために遠い神社でお参りをして絵馬を描き、思い出のアルバムを作ったりした。LINEもたくさんした。相手も最初は返してくれていた。長文のLINEで、相手が大事だ、ということを伝えた。

 

なぜ、そんなことをしたのだろう。彼女のため?いや、多分自分のためだったのだろう。見返りを求めていたんだ。こんなに尽くしたら、相手もきっともっと好きになってくれるだろう、と想っていたんだ。でも、彼女は私の重さに引いてしまったのだと思う。私が依存しているように感じたのだろう。そして、距離を置こうとしている。

 

ひどくつらい。おかげで今日も寝れない。こんな時、どうやって過ごすか。違う友達と過ごして心の穴を埋めるのか?一人で買い物に行ったり、映画を見たり、漫画を読んだり、運動したりして気を紛らすのか?きっと後者がいい。もう、友達なんていらない。期待すると裏切られる。それは昔から知ってたはずなのに。

人間不信とうつ病

最近ブログを書いていなかった。なぜだろうか。三日坊主かもしれない。それか、本格的に鬱病になったか。

 何する気力も起きない。全てのことにイライラし、夜になると虚無感に襲われ不安になる。何も美味しそうと感じない。何も楽しくない。

 人はどのように追い詰められるのだろうか。人間不信とうつ病に相関関係はみられるのだろうか。

 家族が嫌いだ。いや、語弊がある。好きなのだが、家族のためにしなければならないことが多く、自分が疎かになる。そして相手は私がそう感じていることを理解しない。

 友達が嫌いだ。何人かは好きな友達がいるが、それ以外は全員嫌いで、一生会いたくないし、関わりたくない。好きな友達に対してもたくさん秘密があり、いつも自分を作っているから疲れる。

 他人も嫌いだ。気を使わなければいけないし、好かれないといけない。

 人と関わるのが嫌いだ。誰も信じられない。自分は割と好きかもしれない。ただ、勉強もできないし顔も大して良くないし、性格も良くないし太ってるし。いいところなんてない。でも、自分はそんなに嫌いじゃない。だって、何も隠さなくていいから。

 

 誰にも言ってない秘密がある。しかも、それは私の中の大きな部分だ。これが、人間不信の原因か。

 

人間不信とうつ病は関係があるのか。わからないが、ひとつ言えるのは、つらいときに助けてくれるような人がいないのは、追い詰められていく原因の一つだろう。

死にたい

死にたい。すごく傷ついた時、死にたい時はいつもひどく殴られたくなる。みんなはこれをおかしいというが、私は泣いている時や辛い時、殴られたいと強く思う。何度も何度も殴られたくなる。それがもし知らない人に殴られるのではなく、愛している男性とかだったらなおよいだろうと思うのだ。いわゆるマゾなのかもしれない。後ろから蹴られて、馬乗りになられて頭を殴られて、首を絞められたい。そして気を失ったら何て幸せだろうか。私のタイプは、筋肉質な人だ。私のことを素手で殺せるような。殴られる痛みはいいけど、切り傷とかは嫌だな。でも憧れとして、銃一発を撃ち込まれて即死してみたい。

幸せとは

幸せとは何だろうか。それは私の対極にあるものだと思う。就活でおかしくなってしまった精神病患者であり発達障害の兄のご機嫌を取りながら気に障らないよう静かに過ごす毎日。誰も評価はしてくれない。友はなく、趣味もない。これは私に原因があると多くの人は言うだろう。考えてみてほしい。性格は持って生まれたものと育った環境が混ざり合って形成されるものであり、その人の性格によって起きた事象の原因を全てその人にするべきだろうか。否、違うだろう。私には障害を持った兄がいて、ずっと我慢を強いられてきた。それは私からしたいことを選ぶという考え方を奪い、また、他の人と一緒にいると気を遣わなければいけなくて疲れるという間違った考え方を植え付けたのだ。そのため、私は趣味や友だちを持っていないのだ。

 「我慢するだけでしょ?」「努力が足りないだけじゃん」このようなことを言う人たちは間違ってはいない。ただ、その考え方は間違っている。我慢はストレスである。これは、ストレスを溜めずに我慢はできないからであり、もしその方法があるなら教えてほしい。ただし、ストレスを0に、という話であり、もし「ストレスを解消しながら」や「我慢しすぎないで」などというものは受け付けない。なぜなら私の場合、趣味がないためストレスを解消する方法などなく、兄が常に一緒にいて支えなければなさらないのだから我慢しすぎないことなど不可能だからだ。ここで理解してほしいのは、「ストレスを溜めないで」ということと「ストレスを感じないで」というのは別の話であるということだ。こんなことをつらつらと書いておいてなんだが、私はストレスを感じない。しかし、実際にそこにストレスはあり、堆積されていっているのだ。なぜストレスを感じないか。それは常に我慢するのが普通になってしまっていて、自分の感情を抑え込むのが上手くなり、もう自分の感情がわからないのだ。そのためか、突然怒ったりするため自分でも抑えられないことがある。じゃあなぜストレスが溜まっているということがわかるのかというと、生理が来ない、夜眠れない(朝は早起きであり昼寝はしない)、ニキビがひどい、便秘、脂肪がつきすぎ、などの身体的な反応からわかるのだ。そして何より、私はパニック障害を患っている。私はこんなに可哀想だ、とアピールしすぎだと感じると思う。そのはずだ。私は私の兄がいつも主人公で可哀想な人で、私は勉強ができて顔もよくて愛想もよく、、などと自分で言ったら本当に嫌われるだろうが、兄と比べると私は健常者の“理想図”であるため、全く気を遣ってもらえないのだ。そりゃあ可哀想アピールもしたくなる。このブログでしか書けないことで、誰にも言えないことだ。わかっているんだ、自分のことを「こんなに可哀想でしょ!」と悲劇のヒロインぶっているということを。現実では全くしない。母親には手のかからない良い子であり、友達には兄の病気のこと全て隠してみんなの理想の女の子を演じ、先生の前では優等生となり。中身はこんなものだ。可哀想だね、と言ってもらうためにいかに自分がつらいかをこんなに本気になって書いているのだ、誰も読むはずないブログに。ああ惨めである。今日は母親の前でいい子ちゃんできそうにないから、同じ部屋では寝たくないなぁ。