きょうだい児の日記

自閉症スペクトラムを持つ兄との生活や、その兄と育った私の日々を綴っています。

幸せとは

幸せとは何だろうか。それは私の対極にあるものだと思う。就活でおかしくなってしまった精神病患者であり発達障害の兄のご機嫌を取りながら気に障らないよう静かに過ごす毎日。誰も評価はしてくれない。友はなく、趣味もない。これは私に原因があると多くの人は言うだろう。考えてみてほしい。性格は持って生まれたものと育った環境が混ざり合って形成されるものであり、その人の性格によって起きた事象の原因を全てその人にするべきだろうか。否、違うだろう。私には障害を持った兄がいて、ずっと我慢を強いられてきた。それは私からしたいことを選ぶという考え方を奪い、また、他の人と一緒にいると気を遣わなければいけなくて疲れるという間違った考え方を植え付けたのだ。そのため、私は趣味や友だちを持っていないのだ。

 「我慢するだけでしょ?」「努力が足りないだけじゃん」このようなことを言う人たちは間違ってはいない。ただ、その考え方は間違っている。我慢はストレスである。これは、ストレスを溜めずに我慢はできないからであり、もしその方法があるなら教えてほしい。ただし、ストレスを0に、という話であり、もし「ストレスを解消しながら」や「我慢しすぎないで」などというものは受け付けない。なぜなら私の場合、趣味がないためストレスを解消する方法などなく、兄が常に一緒にいて支えなければなさらないのだから我慢しすぎないことなど不可能だからだ。ここで理解してほしいのは、「ストレスを溜めないで」ということと「ストレスを感じないで」というのは別の話であるということだ。こんなことをつらつらと書いておいてなんだが、私はストレスを感じない。しかし、実際にそこにストレスはあり、堆積されていっているのだ。なぜストレスを感じないか。それは常に我慢するのが普通になってしまっていて、自分の感情を抑え込むのが上手くなり、もう自分の感情がわからないのだ。そのためか、突然怒ったりするため自分でも抑えられないことがある。じゃあなぜストレスが溜まっているということがわかるのかというと、生理が来ない、夜眠れない(朝は早起きであり昼寝はしない)、ニキビがひどい、便秘、脂肪がつきすぎ、などの身体的な反応からわかるのだ。そして何より、私はパニック障害を患っている。私はこんなに可哀想だ、とアピールしすぎだと感じると思う。そのはずだ。私は私の兄がいつも主人公で可哀想な人で、私は勉強ができて顔もよくて愛想もよく、、などと自分で言ったら本当に嫌われるだろうが、兄と比べると私は健常者の“理想図”であるため、全く気を遣ってもらえないのだ。そりゃあ可哀想アピールもしたくなる。このブログでしか書けないことで、誰にも言えないことだ。わかっているんだ、自分のことを「こんなに可哀想でしょ!」と悲劇のヒロインぶっているということを。現実では全くしない。母親には手のかからない良い子であり、友達には兄の病気のこと全て隠してみんなの理想の女の子を演じ、先生の前では優等生となり。中身はこんなものだ。可哀想だね、と言ってもらうためにいかに自分がつらいかをこんなに本気になって書いているのだ、誰も読むはずないブログに。ああ惨めである。今日は母親の前でいい子ちゃんできそうにないから、同じ部屋では寝たくないなぁ。